広済寺(高尾) ~じょんのび高柳を「歩く」~

大ケヤキ材を使った荘重な伽藍、禅の奥深さを感じさせる静かな庭園、坪野地区の寺山のふもとにある曹洞宗の寺である。
如意輪観音を本尊とし、円通山広済寺と呼び、創建は嘉吉2年(1442年)。

当時、この地方の領主であった佐橋朝広公は、父親の菩提寺を作るために京都から不琢了圭和尚を呼び寄せた。そして、和尚はこの寺を開山した。創建より250年間は佐橋公ただ一人の菩提寺であったが、佐橋公の没落後に檀信徒の寺となった。

現在の建物は3度目のものである。創建から94年後の天文5年(1536年)に兵乱にあい、壮大で美しい建物は全て灰になってしまったといわれている。その後建立したものの、延宝8年(1680年)3月の豪雨で裏山の土砂が崩落し、全ての伽藍が倒壊、埋没してしまった。

現在の地を選んで安永4年(1775年)に起工し、3年後の6月に棟上式を挙げたのが現在の伽藍である。
この本堂を造った棟梁は小田与七、副棟梁は山崎文七といい、二人とも出雲崎の名工であった。山崎文七は貞観園の建物も造ったと伝えられている。

江戸時代後期、この寺の第19世住職であった直翁祖超大和尚は徳のある人物で、二人の勤皇倒幕の志士をかくまっていた。

その一人は、神道十三派の一つ、禊教の教祖であった井上正鉄である。東京下谷の井上神社の祭神となっている彼は、禅儒仏の三道に精通し、強い勤皇の志を持っていた。その志が幕府に容れられず、和尚を頼って広済寺に3年間隠れ、後に三宅島へ流され、没した。

もう一人、井上正鉄と相前後してこの寺に滞在したのが、日本画家の菊池容斉(1788~1878年)である。後に多くの門人を生み、近代日本画家系譜に「容斉派」の名を残している。神武天皇から後亀山天皇までの時代の名君、義士、忠臣、烈婦の小伝と肖像とを記載した全10巻20冊に及ぶ書物「前賢故実」を著わして、幕府から疎まれた。そのため、雲水無尽保と名を変え、51歳のころ2年間ここに隠れた。地元の人に絵を教えながら、勤皇倒幕の地下運動をしていたという。容斉の作品はこの寺と貞観園に保存されています。

拝観のお問合せ先

広済寺
〒945-1505 新潟県柏崎市高柳町高尾1255
TEL:0257-41-2347

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