栃ヶ原地区に伝わる伝説[柳郷の伝説]

片腕の不動尊

栃ヶ原に不動堂がありました。天和3年の御検地水帳には「不動堂池、壱畝拾弐歩、堂建有之、市左エ門」とあるそうです。場所は、現在の栃原神社(栃ヶ原ではなく、栃は橡の略字)から300mくらい南に離れた大杉地内にあったもので、この不動堂に栃原神社を祀ったものだといわれています。

むかし、このお堂にひとりの山伏がやって来ました。ちょうど夕暮れとなったため、山伏はこのお堂に一晩泊まることにしました。翌朝目をさますと、大勢の村人たちが来てこの不動様を拝んでいました。山伏は起き上がると「お前たちは何を拝んでいるんだ。こんな木で創ったものに魂なんかあるものか。今、俺がその証拠を見せてやる。」といって刀を取り出し、不動様の片腕を切り落としてしまいました。
村の人たちはあまりにも乱暴な山伏の行動に腹を立てましたが、何をされるかわからないと思い黙っていました。すると、片腕を斬られた不動様がムクムクと動き出しました。これには山伏も恐ろしくなって逃げ出し、不動様もこれを追ってどんどん山の奥へ入って行きました。
山伏は、追われ追われて「向う山」の麓まで行くと小さな滝を見つけました。山伏は滝つぼへ逃げ込み泳いで向こう岸へ渡ろうとしましたが、追いついた不動様は残った片方の手で大きな拳をつくり頭を強く打ちました。

山伏が亡くなったこの地を今でも「山伏滝」といい、この谷間を越え「向う山」の山裾をまわると魚沼境の大山の下に出るそうです。そして、そこには栃ヶ原の村人たちがむかしから利用してきた薬の水「大山の湯」が出ているといわれています。

また、この伝説の不動様は今でも栃原神社の奥に祀られています。

盗賊三十若の墓

むかし、何時の頃かはわかりませんが、栃ヶ原地区では毎日のように「盗まれた」とか「品物がなくなった」という事件が起こっていました。いつ自分のところがやられるのか?と、村中は噂が噂をうんで戦々恐々たる有様でした。
春先のある日、誰いうとなく「村の茶屋に旅人が休んでいるが、どうも盗人らしい」という噂が出ました。村の若い衆が駆けつけてみるとすでに茶屋を出た後でした。 若い衆は足跡をたよりにその旅人を追いかけました。赤坂を過ぎ、桐山を過ぎても追いつかず清水のフッタという所でひとりの怪しい男を捕まえて引き返しました。しかし、若い衆は親分格の男を取り押さえることができませんでした。なぜなら、この親分を取り押さえることができなかったは、桐山から後ろ歩きで逃げて、崖の間に逃げ込んだからでした。 若い衆に捕まった男は”三十若”といいました。
ちょうど運悪く庄屋さんが留守であり、若い衆に”三十若”の寝ずの見張りをさせ、衆頭は捕まえた盗賊”三十若”の処分の相談に庄屋の出掛け先へ向かいました。 衆頭が出発した翌日のこと、普段からゴウ(強い)ものとして知られていた寅松という若者が「どうせ処刑するんだ。役人が来たって同じ刑に決まっている。他の見せしめにナブリ殺しにしてしまえ!!」と若い衆をたきつけました。捕まった盗賊”三十若”は「悪いことをしたんだから、殺されても仕方がないが、大親分が5日後にこの地をお通りになる。せめて親分にお目にかかり、お詫びの一言を言ってからにしてください。」と泣いて懇願しました。
しり込みする若い衆たちを叱りつけながら”三十若”の髪の毛をひっつかんだ寅松は若い衆と共に奥作場まで引きずって行ったといいます。そして「せめて5日間生かしてほしい」という”三十若”の哀願の言葉にも耳をかさず、とうとう大きな土の穴を掘って生き埋めにしてしまったそうです。盗賊”三十若”は「この恨み土の下から必ず復讐してやるぞ!!」と言いながら土の下に埋められたということです。そして生き埋めにされた土の下から3日3晩うめき声が聞こえたと伝えられています。
その後、三十若の仲間が創ったのか小さな石がこの地に置かれ、毎年生き埋めにされた日の夕方になると村人の誰も知らないうちにローソクがあげられていたといいます。
そして、この事件の3年後から栃ヶ原では地すべりが始まったということです。

桃源庵のむじな退治

江戸時代の末期頃、静かな栃ヶ原地区でひとつの騒動が起こりました。通称、地蔵堂(桃源庵)の床下に、狼が巣をつくったというのです。始めのうちは「狼がいるらしい。」という程度でしたが、子どもの狼が大きくなるにつれ村中まで餌を求めて出没するようになったのでした。
「昨日は又右エ門さんとこのウサギがやられた。」「今日は五右エ門さんとこの鶏がやられた。」と毎日のように被害の届けが庄屋さんの家に来ました。
昼間でも子連れの狼が村中に出没する不気味さで、ついには人間の子どもや大動物までも襲われるという有様でした。 その頃地蔵堂には尼僧が住んでいましたが、庄屋さんの家に避難したそうです。
村中では夕刻から夜にかけての外出は一切禁止という状況になったそうです。そこで庄屋さんは鉄砲を持っていた八右エ門さんに狼の退治をするようお願いをしました。
八右エ門さんは、愛犬のクロを連れて3日間狼を追いましたが火薬のニオイに気がついてか、狼を仕留めることができませんでした。
庄屋さんは狼の動きを探らせると共に、村中に「槍のある人は槍を、槍の無い人は竹槍を作りなさい。」という命令を出し、その槍でフスマを作ったそうです。 そして、狼が床下にいるのを確認して村中総出で地蔵堂を囲んで槍フスマで四方を囲みました。四方を囲まれた狼は、子どもの狼をかばいながら床下の中央に陣を取り吠え続けました。槍は中央に届かず、周りからワイワイ騒ぐだけでどうすることもできませんでした。
そこで、狼を追い出すため八右エ門さんの愛犬クロをその床下に入れました。クロは、主人の命令に従い猛烈な勢いで飛び込んでは逃げ、逃げては飛び込むという格闘であったそうです。狼の声と犬の声と応援する村人の声が入り混じって一進一退の攻防が一刻以上も続いたといわれています。
そして、村中を震撼させた狼騒動も八右エ門さんの愛犬のクロの活躍によって終わりました。愛犬クロの働きは、栃ヶ原の村中に永く讃えられたそうです。

※上記の伝説は平成14年7月10日に発行された「柳郷の伝説」(著者:春日義一)より転載しました。

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