岡田地区に伝わる伝説[柳郷の伝説]

藤の城物語

天正の頃、八十藤正という豪族が高柳町岡田を支配していました。北条の城主毛利丹後守は八十氏を敵として当地を勢力範囲にせんものと機会を伺っていました。山を越えて鬼沢から探っていましたが、八十藤正の守る藤の城は要害の地で、城攻めには非常に困難な城でした。
しかし、城の欠点は食水の無いことで、鬼沢川の水を引いて飲むか、汲んで来て飲むより方法がありませんでした。
この事を知った毛利方は、谷川のほとりに番兵を置きましたが、この谷川は城の真下で、城からこの番兵を討つことは簡単でした。仕方なく、毛利方は城から弓矢の届かぬ所に陣をはり、谷川をまわして水を止めようと考えたのでした。
城内には、それ相応の貯水はありましたが、一ヶ月、二ヶ月と経過すると、城内の水は少なくなり、三ヶ月を過ぎる頃になると一滴の水も無くなってしまいました。 この頃になって、毛利方は城の囲いを一層厳重にし、水を見せびらかしながら数々の雑言によって城方八十方は、いつか見方が助けに来ることを期待しながら我慢に我慢を重ねたが、ついに耐え切れなくなり、城門を開いて一斉に打ち出した。城兵の必死の戦いで毛利勢も一時はたじろいだが、一進一退の戦いが幾日も続いたといいます。
城主の藤正自身も諸兵と共に原入りの沢まで押し出しましたが、岩の間を流れる清水を見ると諸兵と共に一斉に水を飲み始めました。
敵兵を追い払っては水を飲み、また追い払っては水を飲み・・・を繰り返しているうちに、いつしか藤正ひとりが水飲み場に残ってしまいました。
その時。逃げ遅れて物陰にかくれていた毛利勢のひとりがひそかに藤正の後ろにまわり、水を飲んでいる藤正に切りかかりました。
敵を追い払ったと思った一瞬の油断が、城主の命取りとなってしまったのです。城主を失った八十勢は惨々に敗北し、ついには滅ぼされてしまったといわれています。

今、城主が討たれたその地を「勝負沢」といっています。また、毛利勢が陣をおいた地を「百地」といっていますが、百日の陣をおいたことから「百陣」が正しいという説もあります。 また、岡田の大塚藤右エ門家に伝わる備前長船貞宗作といわれる刀は、八十藤正の守り刀であったといわれています。

和田の長者

岡田に、和田の長者という長者がありました。この何代目かの主人に、生来変わり者で頑固な性格の人がいたそうです。
ある日、長者は「桐沢の入村から自分の家へ来るにはず〜っと回り道をしなければならない。この山の峰を断ち割って掘割にすればどんなに便利だろう・・・」と考えたのでした。 するとある夜、薬師如来様が長者の夢まくらに立ち「この峰は、薬師岳の峰先であるから掘り割らないでください。掘り割らなければ仙田十二ヶ村の福を授けましょう。」といわれたのです。 しかし、この長者は生来つむじ曲がりで人のいうことを聞かない性格で、人々の止めるのも聞かず、昼も夜も休みなしに働き、とうとうひとりで峰を掘り割ってしまいました。 掘り割ってから間もなく、また薬師如来様が夢まくらに立たれて「この地を掘り割らなければ霊水を授けるつもりであったが、すでに掘り割ってしまったからには授けるわけにはゆかぬ。霊水は渋海川の中に湧き出させるとしよう。霊水とは温かい水のことよ。」といわれたそうです。
渋海川のどこに湧き出ているのかはわかりませんが、和田の長者はそれからしたということです。和田の長者跡といわれる場所は、幕末の頃から明治初期には川の渕で、渕の底には四角の箱のようなものがあり、付近からは砂に雑じって一文銭が拾われたといわれています。
なお、薬師岳の峰先に祭られている薬師堂の御本尊は、木造金箔つくりで、以前は中魚沼郡仙田村室島のお寺の本尊佛であったといわれ、岡田庄屋の庄左エ門が譲り受けたものだといわれています。

オワが池

岡田地区から北へ、小清水へ出る道のほとり、大沢地内にオワが池という池があります。この池は、オワという女性が蛇体となって造られたという伝説が残っています。

オワさんは、天性極めて美人であったそうです。しかし、どうしたことかオワさんには生まれつき脇の下にウロコがあり、そのウロコは成長するにつれてだんだん体中に広がって行きました。ついには尾が生え、頭には角のようなものが出てきました。とうとう蛇体に変身してしまったオワさんは、大変悲しみ人知れず家を脱け出し北へ向かいました。 大沢地内まで行くと頭や尾で土を掘り、自分のすみかとするための池を造り、池の主となったそうです。
村の人々はこの池を「オワが池」といって、池の主であるオワの祟りが無いように祈り、近くを通るにも池による災難のないように用心したといいます。 この池の傍らには弁財天を祭った石の祠があります。この祠には池を掘ったオワさんの霊もあわせて祭られているということです。

また、オワが池については別説があり、オワが蛇になって掘った池だから池の主は蛇かと思うとそうではなく、ドジョウという説があります。この池の主のドジョウが田尻の佐藤ヶ池の主のもとへお嫁に行ったというのです。ドジョウが主といわれるだけあって、明治年間に土堤が破れた時、7〜8寸から1尺にもおよぶドジョウがずいぶんいたと伝えられています。

小白倉の大蛇

むかし、白倉というところに大きな池がありました。その中央には底の知れない穴があり、その穴は龍宮に通じていたといわれています。その池は、山々の影を池の水に映し、あくまでも清く澄み幽遠の気を漂わせていました。白倉の村はこの池の周囲にあったそうです。
この池の主は大蛇で、女と汚れたものが大嫌いといわれていました。村人は、足を洗うにも注意して池の中に汚れた水が入らないように気を配っていました。また、女の人はこの池に近づかないようきつく注意されていました。
ある時、村のひとりの女性がこの池で洗濯をしてしまいました。しかもその洗濯物は、子どもが汚したおしめでした。池の主である大蛇は怒りに怒ってその女性を池の中に引きずり込んでしまいました。
このことを知った女性の夫は、妻の不注意を悲しむと共に、妻の仇を討つことを誓いました。夫は日夜仇討ちの方法を考えましたがどうすることも思いつかず、村一番のお年寄りに相談しました。
年寄りは「池の周りにヌルデの木の杭を1,000本、黒金の棒1,000本を交互に打ち込めばヌルデの木の毒と黒金(鉄)の毒で池の主である大蛇は棲むことができなくなる。」と教えました。
夫は「村人に知れれば妨害されるかも知れない。」と考え、1,000本のヌルデと黒金(鉄)をひそかに準備し、妻の仇討ちのために1本づつ交互にいわれたとおり打ち込んでいきました。あと2〜3本で打ち終わろうとした時、突如一転にわかにかき曇り、電光雷鳴と共に大雨となりました。その時、池の中央あたりに大きな波を上げて主である大蛇は突然陸へ跳ね上がり、鬼沢川づたいにどこかへ逃げ去ってしまいました。

今でも、小白倉にこの池の水穴といわれるものがあり、直径15〜16糎の穴には棒を入れても深さを測ることができないといいます。この穴からは、その後も水が流れ出てしばしば土崩れをおこし、村のあった場所は深い沢となってしまいました。そのため、村中が昭和の時代まで住んだ白倉の地に移転したといわれています。

※上記の伝説は平成14年7月10日に発行された「柳郷の伝説」(著者:春日義一)より転載しました。

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